海部城 |
別名 | 鞆城 |
所在地 | 徳島県海陽町(海部町))鞆浦山下 |
遺構等 | 石垣、碑 |
現状 | 山林 |
築城年 | 元亀2年(1571) |
築城者 | 海部左近将監友光 |
歴代城主 | 海部、長宗我部、蜂須賀 |
形式 | 山城 |
訪城日 | 2004/5/2 |
かいふじょう |
「JR海部駅」から東へ約700m。国道55号を日和佐方面へ北上した場合、左手に「JR海部駅」を過ぎた所を右に入ります。海部中学校と海部川の間の通り沿いから右手の山が城跡です。 |
海部中学校と海部川の間の通りを東進すると、右手に「海部城址」の石碑があったので、そこを入って山へと階段を登ってみたものの「森志摩守の墓」があるのみ。ここから山が分断されているが、向こう側の山が城跡のようです。ただ、そっちの山への登り口が分からなかったので、断念しました。どうも海側から入れる道があるらしい。 |
元亀2年(1571)、海部左近将監友光が築城したが、天正3年(1575)長宗我部元親の大軍に攻められ落城した。天正13年、蜂須賀家政が阿波一国を領して入国すると、海部城を阿波9城の1つとし、中村右近太夫重勝が入城した。その後寛永9年(1632)、城代・益田豊後は諸大名に取り入り、海部城を徳島藩から独立させて大名になろうとするが失敗し、正保3年(1646)斬罪に処せられた。元和の一国一城令により、寛永15年(1638)廃城となったが、海部郡代役所が置かれ、文化4年(1807)日和佐に移されるまで、この地方の中心として繁栄した。 |