登城口の地図
峯城
別名
所在地 亀山市川崎町森字殿町
遺構等 曲輪、土塁、空堀、天守台、碑、説明板
現状 山林
築城年 貞治6年(正平22、1367)
築城者 関五郎政実
歴代城主
形式 平山城
訪城日 2005/2/5
【道案内】


【感想・メモ】
みねじょう
【歴史】
TOPページへ
遠景
主郭南の土塁
(左が土塁で右は植林)
国道306号「川崎」バス停がある付近の路地を西へ入り、八島川を渡ります。最初の路地を左折すると、すぐに突き当たるのでここもまた左折します。そのまま田んぼの中を南下していくと、右手の山裾に説明板があるのが見えます。これが峯城の説明板で、登城口は、この説明版から山裾沿いに左手へと回り込み、山の南西側の平坦地を少し歩いていくと、山に入っていく標柱があるので、そこから登ります。
ズンズン登ると左手は藪と植林があり、その先はかなり密集した竹林。あれっ?主郭は?と思ったら植林の所が主郭でした。土塁に枯草や藪が覆っている上に、植林された木が視界を遮っていたため、全然分からず素通りしてました。土塁の上を歩くと全体像が見えハッキリしました。西側の土塁は一段と分厚く高く、その真中付近には更に高い天主台と呼ばれる土壇があります。本丸の北側は堀切となっており、結構高さがあって圧巻です。土塁から堀切へと下り、そこから北の曲輪へ行ってみました。かなり高さがある所を上り下りしますが、こっちにも遺構があります。土塁が途中で断ち切られてたりと、ちょっと変わったつくりになっています。お城は、東に八島川、南に安楽川が流れており、天然の要害の地だったようです。
貞治6年(正平22、1367)、関政実が築城し峯越前守と称したといわれる。峯氏は、関氏及び神戸氏が近江の六角氏と接近したため自然と六角氏に属した。しかし、織田信長の伊勢侵攻により神戸信孝に属した。天正2年(1574)、長島の戦いで9代目・峯八郎四郎盛祐が討死したため、弟・与八郎(盛治)が幼少ながら継いだ。天正11年、亀山城主・関安芸守盛信の家臣・若藤左衛門が滝川一益に通じ峯城を攻めたため、一益の甥・滝川儀太夫の手に落ちた。豊臣秀吉が数ヶ月包囲して儀太夫を降し、織田信雄の家臣・佐久間正勝を城主としたが、翌天正12年、秀吉と信雄が不和になったため、秀吉は蒲生氏郷・関長門守に命じ峯城を落とし、廃城となった。
北の曲輪虎口