【道案内】 |
城跡の地図 |
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穆佐小学校から県道28号を挟んだ西側の小山が城です。以前は城跡の南東麓に小学校があり、校庭奥の登城口脇に駐車場があったのですが、2011年に小学校が移転しています。
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【感想・メモ】 |
登城口に碑と説明板があり、登城道はしっかりしています。奥へ入っていくと神社があり、社殿に向かって左奥に島津忠国誕生杉の標柱や説明板があります。更に奥へと行くと右手に大堀切があり、その先も道はありますが、曲輪の方は藪だらけで何も見えなかったので、適当に切り上げて帰ってきました。整備する計画があるようですが、藪を払うとかなり遺構が分かるようになり、見応えがあるかも?と思いました。 |
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【歴史】 |
南北朝時代である元弘年間(1331-34)、この地が足利尊氏の所領となると、土持氏・伊東氏・肝付氏などで攻防が繰り広げられた。その中でも、日向国守護畠山直顕は穆佐城を拠点として、大隅国まで勢力を広げた。その後、島津氏と伊東氏の争いへと引き継がれ、応永10年(1403)穆佐城入りした島津久豊(後の第8代島津家当主)は、自身の墓や息子・忠国の誕生杉を残した。その後、文安2年(1445)から約130年余、伊東氏が支配したが、天正5年(1577)、再び島津氏が支配し、以後、去川関外四ヶ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続いた。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |