松山塁
別名
所在地 宮崎県川南町松山
遺構等 曲輪、空掘、堀切、土塁、土橋
現状 山林
築城年 天正6(1578)
築城者 佐伯宗天
歴代城主 佐伯
形式 陣城(台城)
訪城日 2006/11/20
【道案内】 城跡の地図
高城の東約600m。多賀小学校から県道40号で500m程南下した路地を左折します。そこから1km程南下し、左手に「宗麟原供養塔」案内を過ぎ、50m程南下すると道が左カーブになりますが、カーブ手前に右手前方へと畑と木立の間を行く道があるので、そちらへ行きます。この道の正面の山林が城跡で、車は宗麟原供養塔の案内がある付近の余白に停めました。
【感想・メモ】
畑の横の道を丘陵の先端方面(南)へと歩いていくと、藪だらけと思っていたら、しっかり道がありました。道を行くと左手に空掘と土橋があるのが分かります。土橋を渡って一段高い郭に入ると、ここも藪ですが、更に先端へと向かうと大きな堀がありました。この向こう側もどうやら郭のようです。ただ、あまりの藪と深い堀とくっつき虫(実際は草だけど)の攻撃で気力が失せてきて、そこから引き返しちゃいました。でも、これだけでもかなり立派な遺構が見られて大満足でした。本当は石塁もあるらしいです。藪を払えばかなりスゴイ遺構が楽しめそう。城跡から出て、衣服だけでなく靴紐にまでくっついたひっつき虫を取るのが大変でした。
【歴史】
天正6年(1578)、大友軍侵攻時の総大将佐伯宗天が築城した。豊臣秀吉の九州進行時に、総大将豊臣秀長がここに滞陣した。

左手に「宗麟原供養塔」の碑がある所を更に50m程直進(南下)する

左カーブ手前で、右手前方の畑と木立の間を進み、正面の山林が城跡
まつやまるい