【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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東九州自動車道「苅田北九州空港インター」を出た先の県道25号と県道245号が交差する「空港・IC入口」信号から南東へと県道25号を700m程進んだ「松原町」信号を左折します。300m先の突き当りを右折し、120m程東進して左折、200m程北東へ進むと松山城跡駐車場があり、ここが登城口です。城の南麓に位置します。 |
【感想・メモ】 |
現在は周囲が埋め立てられてしまいましたが、かつては周防灘に突き出た半島でした。登城道や城の主要部は整備され見学しやすく、最高所の主郭から東へ二郭・三郭と続きますが、三郭は立入禁止でした。しっかりした石段が良好に残っているのが特長で、二郭北の畝状竪堀や主郭南の横堀も見所です。大量の瓦が散在しているのも珍しいです。 |
【歴史】 |
『豊後古城記』によると、天平12年(740)、大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こした際に築城したといわれる。天慶3年(940)、藤原純友の乱の際は地元の武士神田権少進光員が城を改修し居城した。応永5年(1398)、大友氏鑑が松山城を攻めた。当時、豊後守護職の大友氏時は嫡男氏鑑ではなく甥の親世を後継者とした。これは、豊前守護職大内義弘の妹が親世の内室だったためで、これを不満とした氏鑑は、大内氏重臣で豊前守護代の杉弘信が居城していた松山城を攻撃した。杉弘信は大内氏の軍勢を率い松山城を取り返し、その後杉氏が続いたが、大友勢が数回にわたり攻めかかった。弘治2年(1556)城主杉重吉の時、大友義鎮に攻められ落城。永禄5年(1562)毛利氏の城代として天野隆重が城を守っていたが、大友義鎮(宗麟)に攻められ落城し、再び大友氏の城となった。天正年間(1573-92)は長野三郎左衛門助盛の持城だった。慶長5年(1600)豊前国は細川忠興の領土となり松山城は9支城の一つとして大改修されたが、慶長11年(1606)廃城となった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |