【道案内】 |
駐車場の地図 |
城跡の地図 |
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嘉麻市役所嘉穂庁舎から東南東へ約900m。嘉麻市役所嘉穂庁舎から国道211号を1km程南東へ進んだ「一夜城」の案内に従い左折します。このまま案内に従い山道を上がっていくと城跡で、駐車場が完備されています。 |
【感想・メモ】 |
城の主要部は整備されていて見やすいです。主郭・二郭は北西から南東に向かってだだっ広く、中央付近南側に模擬櫓も建っています。桝形虎口や横矢、石積み土塁など見所満載で、西端の櫓から桝形虎口を見下ろす姿は圧巻です。この北下から西下斜面、二郭東下の斜面には畝状竪堀もあります。また、二郭と駐車場の間にも水の手曲輪や別曲輪などがあります。更に、駐車場から南へ土塁が、駐車場の北側に通る道路の北に畝状竪堀が続いています。城域は広く、このまま道なりに東から南へ進んだ付近も城域のようですが藪で良く分からず。また、駐車場から西へ進むと出丸・別曲輪があり、こちらは表示があり若干整備されています。全体を見学するのに約3時間かかりました。 |
【歴史】 |
永享年間(1429-41)初め頃、大内盛見によって築城されたといわれる。永禄年間(1558-70)に毛利元就の領有となり、杉七郎忠重が城番となった。天正年間(1573-92)に秋月氏の隠居城となったが、天正15年(1587)豊臣秀吉が秋月氏を攻略し早川主馬首を城番とした。その際、一夜城伝説がある。30万の軍勢と共に小倉城に入った秀吉は、秋月二十四城の一つ豊前岩石城を一日で落とした。それを知った秋月種実は種長が守る古処山本城へ逃れた。秀吉は嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせ、大隈町民に命じ町中の戸や障子を益富城へ運ばせ、一夜にして仮城を築いた。この光景に秋月父子は戦わずして降伏したという。慶長5年(1600)に黒田六端城の一つとなり、後藤又兵衛が城主となったが、慶長11年、後藤又兵衛は出奔し、母里太兵衛が城主となった。元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板 |