【道案内】 |
城跡の地図 |
登城口の地図 |
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JR「八幡駅」から国道3号で200m程西進した「西本町3」信号を南へ入ります。2km程南下した「花尾町」信号を右折し、600m程西進して道なりに左急カーブし、都市高速を越えて150m程東進して右急カーブの途中で左折します。800m程坂道を上がって行くと道路左手に「花尾公園 花尾城址」の案内があるので、ここから登ります。登城口に約3台分の駐車スペースがあります。 |
【感想・メモ】 |
歩き始めると、「中登山道」と「東登山道」の案内があり、どちらも20分と書いてあり、私は「中登山道」で登りました。すると10分程で櫓台のある郭に着き、これが一番西側の郭です。この郭から南へ行くと竪堀が見られ、東へと堀切を越えると四の丸に着きます。このお城は曲輪の周りに竪掘があり、曲輪と曲輪の間には堀切があります。更に東へと三の丸、二の丸、本丸となり、本丸の東側は一段低くなっています。ここから北へ下りて行くと石組み遺構や井戸があり、あちこちに石垣が見られます。井戸付近から東へ進むと大堀切があり、その東側は櫓台、馬場となっています。更に少し離れた東側に堀切があり、馬場の北にも曲輪があります。全体に遺構がよく残っており、とても楽しめるお城ですが、堀切が藪で埋まっているのがちょっぴり残念です。 |
【歴史】 |
麻生氏の居城跡で、小倉の大三岳城跡や門司の門司城跡と共に中世北九州の代表的な山城である。平家滅亡後、宇都宮朝綱の次男家政は鎌倉幕府の命により遠賀山鹿庄に下り、山鹿氏を称した。その子時家は次男資時に麻生庄野面庄上津役郷を割譲し、資時は麻生庄に本拠を置き、麻生氏を名乗り、麻生氏の祖となった。その後、数代が居城し、明応年間(1492-1501)大内氏の麾下となった。文明10年(1478)麻生氏の家督をめぐり、惣領家弘家と反惣領派家延との内紛が起き、山口の大内政弘が弘家を援け、花尾城に篭る家延を攻めた。しかし城の守りは堅く、3年間の攻防でも落城しなかったため、和議した。豊臣秀吉の九州征伐の後の天正15年(1587)、小早川隆景が筑前を領したため、麻生家氏は浪人となった。黒田長政の筑前入部の際、家氏の弟麻生四郎右衛門が召抱えられ、代々黒田氏の家臣となって明治を迎えた。 |
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櫓台 |
四の丸から三の丸へ |
本丸の城址碑 |
本丸東の大堀切 |
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