轟城 |
別名 | 畠山重慶城 | ||
所在地 | 栃木県日光市(今市市)轟 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、水堀、説明板 | ||
現状 | 山林 | ||
築城年 | |||
築城者 | 畠山重慶 | ||
歴代城主 | 畠山重慶 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2010/3 | 感想 | ○ |
轟小学校西方の「轟」信号から国道461号を1km程北東へ進んだ、「館坂上」バス停がある所で右折します(この角にお城の説明板有)。200m程東進した民家手前の左手に字が消えかかり分かりにくいですが「轟城跡入口」の看板があり(右写真)、ここから入っていくと城跡です。入口付近余白に駐車しました。 |
一辺が約80mの土塁に囲まれた正方形の城跡で、鎌倉時代の畠山重忠の末子重慶の城と伝えられる。「建保元年(1213)、畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山弁覚が鎌倉に通報し、将軍実朝は、長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参したため、実朝は不快に嘆息した。」と『吾妻鏡』巻20に記録されている。鎌倉期の典型的な豪族居館と推定され、中央に井戸跡がある。(現地説明板、『日本城郭大系』新人物往来社発行 『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照) |
登城口
とどろくじょう |
城跡は単郭で、土塁がしっかり取り巻いている館です。沢の水を取り入れた水堀が周囲にあるのが特徴で、西側虎口付近には石積みが見られます。郭の中央やや東南には井戸跡と思われる凹みがあります。とてもしっかりした城跡なのですが、藪で見にくいのが残念です。 |