千本城
別名 教ヶ岡城、須藤城
所在地 栃木県茂木町町田字尾軽
遺構等 曲輪、土塁、横堀、堀切、碑、説明板
現状 羽黒神社、山林、畑
築城年 建久8年(1197)
築城者 千本為隆
歴代城主 千本氏
形式 山城、標高240m
訪城日 2009/11 感想
城址碑があった所は土塁があって枡形虎口といった感じです。畑は屋敷跡で、駐車した二の丸にも土塁があります。この上が本丸ですが、虎口が明瞭で、その手前に横堀があります。本丸は現在羽黒神社が鎮座していますが、土塁がしっかり巡っています。この背後に堀切があります。全体に遺構が良く残っていて見やすいです。
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【感想・メモ】

本丸背後の堀切

須藤中学校から北へ約900m。国道294号「芳賀十文字」バス停から200m程南下して左前方の道へ入り(須藤中学校から北へ約3kmで小さいが千本城の表示有)、1km程南下して鋭角に右折(小さな表示有)します。車1台が通れる程度の細い道ですが、少し進むと城址碑と説明板があります。更に進むと畑を通り過ぎて簡易トイレがある郭に入ります。ここが二の丸で車はここに停めました。
那須資隆の十男為隆(与一宗隆の兄)は、源氏に属し平家滅亡の功により須藤の知を与えられ、須藤氏の祖となり、建久元年(1190)所草に館を構え、建久4年には古宿に九石城を築いたが茂木領に接近していたため、建久8年、千本城を築いて移った。時代は下り、那須氏の惣領那須高資と弟資胤との間に内紛が起き、資胤は千本城主13代資俊を頼った。そこで、天文20年(1551)正月、資俊は高資を千本城に誘って殺害した。しかし資俊・資政父子は天正13年(1585)12月、高資の子資晴の陰謀にあい烏山の太平寺で暗殺された。ここで千本氏は一時断絶したが、茂木三郎の二男四郎義政が千本大和守義隆と称し千本城に入った。天正18年(1590)義隆は豊臣秀吉の小田原征伐に従い、芳賀郡内に2070石の朱印地を賜り、秀吉の朝鮮出兵の際は肥前名護屋城に参陣した。その子義定は関ヶ原の合戦で徳川家康に従い、慶長7年(1602)千石の加増を受け3370石の旗本となった。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照)
【歴史】

【道案内】
城跡の地図
せんぼんじょう