小原沢塹壕 |
別名 | |||
所在地 | 栃木県日光市(藤原町)藤原 | ||
遺構等 | 土塁、空堀、説明板 | ||
現状 | 山林、公園 | ||
築城年 | 慶応4年(1868) | ||
築城者 | 会幕連合軍 | ||
歴代城主 | |||
形式 | 塹壕 | ||
訪城日 | 2008/11 | 感想 | △ |
慶応4年(1868)1月から翌明治2年5月まで政府軍と旧幕府側とが戦った戊辰戦争は、部分的には鳥羽伏見の戦い(京都)、上野の彰義隊の戦い(江戸)、日光山を巡る攻防(下野)、奥羽越列藩同盟と会津落城(東北)、五稜郭の戦い(北海道)などがある。徳川家祖廟がある日光山も重要な戦略拠点で、政府軍の土佐藩隊長板垣退助や会幕連合軍大鳥圭介らの努力で日光山の戦火は回避され、戦争の舞台は会津若松城下に通じる会津西街道に移り、沿道住民を巻き込んだ。慶応4年、閏4月から5月初めの二度にわたる今市宿攻防戦は政府軍が死守した。敗退した会幕軍は陣容を立て直すため一旦会津へ退き、再び南下して政府軍の進撃に備えた。会幕軍は下原、大原、藤原などの街道筋へ主陣や前線基地を築き、若松城下を目指す政府軍の前進を阻もうとした。政府軍は会幕軍の主戦場白河口へ結集する退却によって前進できた。大原・藤原などの集落は会幕軍の退却に伴って焼き払われた。その際、この小原沢も激戦地で、会幕連合軍は近隣の農民を使役して溝型の防御施設を設け、モウキ山の麓に姿を見せた進撃する政府軍を一斉射撃した。 (現地説明板 参照) |
公園に説明板や殉難碑があり、その背後に塹壕が残っています。 |
東武鬼怒川線「鬼怒川公園駅」から東へ約200m。鬼怒川公園駅のすぐ東にある鬼怒川公園の道路を隔てたすぐ東側の公園とその背後の山が塹壕です。 |
おばらざわざんごう |