益子古城 |
別名 | |||
所在地 | 栃木県益子町益子字城内 | ||
遺構等 | 堀切、説明板 | ||
現状 | 陶芸メッセ益子 | ||
築城年 | 康平年間(1058-65) | ||
築城者 | 紀権守正隆 | ||
歴代城主 | 益子氏 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2009/11 | 感想 | ○ |
南郭と本郭の間の堀
真岡鉄道真岡線「益子駅」から東北東へ約1.5km。益子駅から県道41号で1.4km程東進して左折し、70m程北上すると「陶芸メッセ益子」があります。ここが城跡で、無料駐車場が完備されています。 |
康平年間(1058-65)征東大将軍紀古佐美の子孫・紀権守正隆が築城して益子氏を称したといわれるが定かでない。戦国時代には、平時はこの益子古城を居城とし、高館城は戦時に立て籠もる詰の城とした。天正17年(1589)3月、宮内少輔家宗の時、益子氏は主家宇都宮氏に背き宇都宮国綱、芳賀高継、玉壬高宗等と戦い滅亡したとの説と、同年、益子氏が北条氏に内通し、笠間氏・芳賀氏の領地を侵したという罪により、宇都宮22代城主国綱が芳賀高定・多功綱継・笠間綱家・塩谷由綱らとはかり益子勝宗の所領600町を没収したとの説がある。いずれにしても、天正17年に益子氏は滅亡し、城は廃城となった。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行 参照) |
陶芸館がある所が南郭で、礎石等がある広場が本郭、その西側の芝生広場が西郭です。南郭と本郭の間の堀が残っていて、こんな所でこれだけでも良くぞ残った!とちょっと感心します。 |
ましここじょう |