倉ヶ崎城
別名 喜連川城、蔵ヶ崎城
所在地 栃木県さくら市(喜連川町)喜連川
遺構等 曲輪、土塁、空堀、説明板
現状 お丸山公園
築城年 文治2(1186)
築城者 塩谷惟広
歴代城主 塩谷
形式 平山城
訪城日 2007/5/12 感想
【感想・メモ】
スカイタワーから南へと堀切を越えると三の丸で、次の堀切を越えると二の丸です。この二の丸への堀切がかなり深くて見応えがあります。更に堀切を過ぎると本丸で、ここの堀切も素晴らしい。どこの堀切にも赤い橋が架かっていました。二の丸には説明板や東屋があり、本丸から先にもちょっとした堀切があります。全体に公園として整備され見やすいのですが、整備する際にちょっと改変しているように感じました。


【道案内】
城跡の地図
市役所喜連川庁舎西側から登るか、シャトルエレベータで上がる事もできますが、車で山頂まで行けます。役場の東側を走る県道74号を役場から800m程北上して信号を左折します。左折後、県道74号は斜め右手となりますが、ここを直進方向の道へ行きます。200m程東進した突き当りを左折し、道なりに800m程進んで左折すると、スカイタワーのある山頂で、山頂に公園駐車場があります。
くらがさきじょう
【歴史】
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倉ヶ崎城は荒川と内川に挟まれ、更に両側が急斜面になっている喜連川丘陵突端の要害を利用して築かれた。塩谷惟広は、源義家の孫・頼純を祖とし、源平合戦(1185)に源義経軍に従って、一ノ谷および屋島の戦いで功を立て、源頼朝から塩谷の里・三千町を領地として与えられ、文治2年(1186)この地に城を築いた。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により実質上全国を平定した際、関東・東北の諸大名等は相次いで秀吉に従順を誓ったが、時の城主塩谷惟久は、その機を失い、秀吉の怒りを恐れて出奔した。そのため、約400年続いた喜連川塩谷氏は17代惟久で幕を閉じ、倉ヶ崎城は喜連川足利氏の所管となった。