城跡の地図
曽谷城
応永8年(1401)頃、曽谷重胤が千葉介胤鎮から曽谷村の近在3千町を与えられ、曽谷城主になったのがはじまりといわれる。この重胤の孫・曽谷教信は日蓮聖人に帰依し、法蓮日礼の法号を給わり、長谷山安国寺を建立した。その後、一族の末裔である曽谷胤貞は建武元年(1334)足利尊氏と共に九州に向い、多々良浜の合戦で武功を挙げたが、建武3年(1336)下総へ帰る途中、三河国(愛知県)高橋の合戦で討死し曽谷城も落城した。康正2年(1456)、下総市川で古河公方足利成氏と千葉自胤との合戦で曽谷左衛門尉直繁兄弟らが討死し、曽谷一族は滅亡した。鈴木金堤の著「手ぐりふれ」に、「曽谷村は千葉介の一族曽谷殿の館跡也しとぞ、館跡に曽谷殿の愛石なりとて、青き石の紋に黒く烏の形あざやかにあらはれて、烏石と云伝へしを、烏石を乞もとめひたすら愛し、後に東海道鈴の森の鎮守の社地に安じたるよし・・・」とあり、城中にあった「烏石」は現在、東京都大田区の盤井神社に残されている。烏石は江戸で名うての書家、松下雨石のことで、この烏石を見て以来、雨石の号を烏石と改めた。(現地説明板、『日本城郭大系』新人物往来社発行 参照)
【歴史】
城跡は台地上にあり、宅地や梨畑になっているためほとんど改変されています。説明板の所を右折して直進した行き止まり右手のお宅に土塁や空堀が残っています。
【感想・メモ】

別名 曽谷御殿屋敷、曽谷殿館、曽谷殿屋敷
所在地 千葉県市川市曽谷3丁目21番地
遺構等 土塁、空堀、説明板
現状 宅地、梨畑
築城年 応永8年(1401)頃
築城者 曽谷重胤
歴代城主 曽谷氏
形式 平山城
訪城日 2009/2 感想
【道案内】

そやじょう
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京成本線「八幡駅」から北へ約2.1km、JR総武線「本八幡駅」から北へ約2.5km。県道51号と県道264号が交差する「曽谷三叉路」信号から県道264号を700m程西進して、左手にNTTを過ぎてすぐの路地を左折します。200m程南下すると説明板がありこの付近一帯が城跡です。