椎津城 |
JR内房線「姉ヶ崎駅」から南西へ約900m。県道24号「姉崎」信号から900m程南西に進んで椎津川を渡り、50m程進んで左折します。右手に「春日神社(八坂神社)」があり、この神社の南側に見える山が城跡です。城跡の南側・住宅と住宅の間に山へ入っていける道があります。ここから入ってもう少し上ると左手に広いスペースがあります。ここにお城の説明板があります。このスペースに駐車可能です。 |
別名 | |||
所在地 | 千葉県市原市椎津 | ||
遺構等 | 曲輪、空堀、碑、説明板 | ||
現状 | 春日神社(八坂神社)の南の山 | ||
築城年 | 明応年間(1492-1501) | ||
築城者 | 三浦氏 | ||
歴代城主 | 三浦、千葉、武田 | ||
形式 | 台城 | ||
訪城日 | 2005/7/30 | 感想 | △ |
しいずじょう |
城跡へ上り道 |
説明板があったおかげで城跡に間違いないというのが分かりホッとしました。ただ、その奥は竹薮で足元がどうなっているか何も見えない状態。夏場はとても入れないなぁということで奥へ入るのはやめました。 |
明応年間(1492-1501)、三浦氏が築城した。戦国時代、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦っていた頃、関東では小田原北条氏と、安房里見氏が関東の覇権争いをし、勢力を拡大していた。両者は上総・下総で激突し、椎津城もその戦乱に巻き込まれ、北条方・里見方との間を揺れ動いた。この覇権争いは「国府台の戦い」で北条氏が勝利し決着がついた。そして、椎津城は北条方のものとなった。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅ぼされ、椎津城も秀吉より関東を与えられた徳川軍に攻め落とされた。 |
城跡の説明板 |