明性院の南西、真っ直ぐ正面に荒れた社殿が見える右手に、これまた錆び付いた城址碑があります。この城址碑の東側が主郭です。藪を払いのけながら入っていったら、しっかり削平され、周囲には土塁が巡っていました。来た道を戻ってみると、草木の隙間から水堀?と思える場所があるのですが、縄張図を見ると、水の手の井戸のようです。遺構としては、この付近が見所なのですが、光福禅寺も一応城域だったため、綺麗な説明板が光福禅寺にあります。
佐是城

市原市役所南総支所から国道297号で500m程西進した信号の所に「佐是城址 光福禅寺 左折」の案内がありますが、この信号を直進して更に400m程進んだ通り沿い右手にも「光福禅寺」の案内があるので、ここを左折します。すぐに「小湊鉄道」を越え、300m程西進すると「光福禅寺」は左折の案内がありますが、ここを直進し、少し行って左カーブし、そのまま道なりに進み、道が左へと2回曲がるのを進むと、「明性院」という今は荒れ果てた人が居ないお寺に着きます。このお寺付近一帯が城跡です。光福禅寺に参拝者用駐車場があります。
【道案内】
城跡の地図

別名
所在地 千葉県市原市佐是
遺構等 曲輪、土塁、空堀、井戸、碑、説明板
現状 明性院一帯
築城年 天文19(1550)
築城者 武田国信
歴代城主 武田
形式 平山城
訪城日 2005/7/30 感想
水の手
【感想・メモ】
さぜじょう
【歴史】
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城址碑
鎌倉時代に、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内地籍に「館」を構えたのが始まりといわれる。主郭や妙性院の周囲の地は、館が襲われた時に、一族の身を守る為に造られた砦の役目をしたようです。時代が下がり、天文19(1550)、武田国信がこの地に入り、佐是氏が築いた砦を大規模な城に改修した。国信の子孫は、天文21年(1552)、椎津合戦に籠城軍として入り、討死した。