城跡の地図
森山城

主郭

城跡はかなり広いのですが、広範は畑地になっています。三郭・二郭・主郭への虎口はどこも立派な空堀と土橋があるのですが、堀は藪になっています。特に主郭手前には馬出しがあり横矢がかかっているのですが、ここも車が捨てられたり、藪で分かりにくいです。
【感想・メモ】
JR成田線「笹川駅」から西南西へ約1.8km。JR笹川駅南東約200m踏切から県道266号で1.2km程南下して右前方へ入ります。約1km先で道が突き当たり、右手は「芳泰寺」方面ですがここを左折し、300m西進して右折します。200m先で左折して100m程北上し、突き当りを左折するとすぐに三郭となり、主郭は更に西進した奥です。城跡の東からアクセスすれば城内まで車で行けますが、城跡西側の妙見宮背後から搦手道を歩いて登ることもできます。
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【歴史】
建保6年(1218)、千葉常胤の六男・東六郎胤頼が築城し、以後東氏が代々本城とした。東氏は千葉六党の一つで、鎌倉時代から南北朝にかけて、この下総一帯に大勢力を張った豪族である。しかし、東氏が美濃へ移ると、その庶流で銚子を中心に勢力のあった海上氏が支配した。戦国期には千葉昌胤の庶子胤富が城主となり、胤富は海上氏の娘を妻として海上氏を継いだが、弘治3年(1557)兄親胤が家臣に殺害されると、千葉本宗家を継承して本佐倉城に移った。しかし、「香取の海」対岸の常陸国に接するこの城は、千葉氏領国の北辺を守る「境目の城」として、また東総支配の拠点としてその後も重要視された。天正13年(1585)胤富の子邦胤が家臣に殺害された後は北条氏と結んだが、千葉氏14代東重胤の時に北条氏が滅亡し、森山城も廃城となった。(『日本城郭大系』新人物往来社発行、『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書T』千葉県教育委員会発行、『図説房総の城郭』千葉城郭研究会編 参照)
別名 飯田城、橘城、柑子城、仲城、仲之城
所在地 千葉県香取市(小見川町)下飯田
遺構等 曲輪、土塁、横堀、土橋、碑、説明板
現状
築城年 建保6年(1218)
築城者 東六郎胤頼
歴代城主 東氏、海上氏
形式 丘城
訪城日 2008/8 感想
【道案内】

もりやまじょう