茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を堀切して築かれ、東西330m、南北200m、総面積約55000平方メートルの規模を誇る。14世紀末〜15世紀前半に築城されたと考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められる。茅ヶ崎城の近くには関東各地と鎌倉を結ぶ「中の道」が通り、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道が通じるなど、交通の要衝に築かれた。築城当初は東西2つの郭のみだったが、15世紀後半頃に土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられる。中郭(当初の西側郭)の南東部から倉庫と考えられる建物などが見つかり、この時期に相模国と武蔵国を支配していた関東管領上杉氏が、茅ヶ崎城の改築にも影響を与えていたと推定される。16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされ、中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られている。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成だった可能性もある。この頃の城主は、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説がある。(現地説明板参照) |