河村新城 |
JR御殿場線「谷峨駅」から北西へ約1.6km。国道246号「清水橋」信号から300m程西進して右折します。道なりに1km程上がっていくと許可車以外通行禁止と書かれチェーンがあるので、ここから歩きます。通行禁止手前に1〜2台分の駐車スペースがあります。 |
別名 | 新庄城、新荘城 | ||
所在地 | 神奈川県山北町川西 | ||
遺構等 | 曲輪、堀切、説明板 | ||
現状 | 茶畑、山林 | ||
築城年 | 戦国時代 | ||
築城者 | 後北条氏 | ||
歴代城主 | 後北条氏 | ||
形式 | 山城(Pから比60m、標342m) 駐車場所から櫓台まで約12分 |
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訪城日 | 2011/9 | 感想 | × |
茶畑の中の道路を歩いていくと10分強でNTTの施設(青い建物)がありますが、ここは堀切のようです。その少し先に説明板があり、この位置は櫓台跡と書いてありました。藪が酷かったので、この左手道路を下り、途中から右手の山へと道があったので入ったのですが、こちらも結局は藪に阻まれてしまいました。櫓台には石積みもあるようですが確認できず。冬に訪れた方が良いですね。 |
小田原北条氏が甲駿国境に築城した重要な出城(境目の城)で、たびたび争奪戦が繰り返された。永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めの際、湯ノ沢城・足柄城など周辺の9城と共に落城した記録があるほか、天正9年(1581)には、武田勝頼の攻撃にもあっている。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際は、北条氏の江戸城代であった遠山左衛門尉景政が守備していたが、徳川家康配下の甲州勢が押し寄せ、雑兵31人が討ち取られて落城し、その後廃城になったようである。この城は標高342mの城山頂上部にあり、南麓の鮎沢川と東麓河内川に加え北麓を塩沢川が深い谷を形成し、周辺河川敷との比高180mにもなる天然の要害を利用して築かれている。唯一西方へ伸びる細尾根上を通る御厨古道は城内に引き込まれ、河内川対岸の奥山家古道や鮎沢川対岸の谷ヶ(やが)を通る古道なども遠見できる戦略拠点になっている。平成10年に実施された試掘調査にて、櫓台跡の中腹緩斜面を西から南にめぐる幅約4mの道路状遺構、西方窪地部では幅約11.5m、深さ約3.5mの畝堀も確認されている。 参考資料 『日本城郭大系』新人物往来社発行 現地説明板 |
かわむらしんじょう |