早川城 |
城跡は公園となりちょっと分かりにくい点もありますが、駐車場から南へ進むと明瞭な堀切があり、この内側が主郭(桜の広場)で、北と東に土塁が見られます。また、東の土塁の外側には堀跡の雰囲気が感じられます。主郭はだだっ広く、先端が東に広がった形をしており、南西に東郷氏祖先発祥地碑が立つ物見塚と呼ばれる櫓台があります。主郭の東へ下りると湿生園がありますが、この城山の東西の谷は湧水が豊富だったようで、この湿地帯を天然の水堀として利用していたと思われます。 |
別名 | 城山 | ||
所在地 | 神奈川県綾瀬市早川城山3丁目 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、堀切、説明板 | ||
現状 | 城山公園 | ||
築城年 | 鎌倉時代初頭 | ||
築城者 | 渋谷重国? | ||
歴代城主 | 渋谷氏(早川氏) | ||
形式 | 丘城 | ||
訪城日 | 2011/2 | 感想 | ○ |
綾瀬市役所から県道42号で500m程北上した「城山公園入口」信号を左折し、500m程南西に進んで右折します。250m程北西へ進んだ左手の「城山公園」が城跡で、公園北側に無料駐車場があります。 |
平安時代末期から現在の綾瀬市を中心に渋谷荘(吉田荘)を支配した渋谷氏が築城したと思われる。平治の乱(1159)に敗れて奥州へ落ち延びた源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとあることから、この頃には既に勢力を誇っていたと思われる。鎌倉時代に入り、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が跡を継いだ。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率したと思われる。建保元年(1213)和田合戦では高重は和田義盛に与したため高重をはじめ多くの一族が討たれたが、宝治2年(1247)宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得て地頭となり、その際多くの一族が移った。しかし、室町時代初め頃まで綾瀬市域の渋谷氏支配は続いたと思われる。 参考資料 『日本城郭大系』新人物往来社発行 現地説明板 |
はやかわじょう |