茨城県のお城 ぬかだじょう
額田城
別名 久慈見城
所在地 茨城県那珂市額田南郷
遺構等 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板
現状 山林
築城年 建長年間(1249-56)
築城者 額田義直
歴代城主 額田、小野崎
形式 平山城
登城時間
主郭北の堀
訪城日 2013/6/1 感想
【道案内】 城跡の地図
額田小学校の南東約500mが主郭。車の場合、額田小学校南西の県道62号と国道349号の交差点から国道349号を400m程南下した左手にある「阿弥陀寺」の参拝者駐車場を利用すると良いです。
【感想・メモ】
お寺の駐車場に城の説明板があり、ここから東へ進むとお城への案内があります。主郭の周囲には巨大な堀が巡り、水が湧き出る箇所があるため水堀のようにぬかるんでいます。特に南側は底なし沼のような雰囲気。この主要部だけでもかなり見応えがありますが、城域はかなり広かったようで、825x1070mもあったようです。北側の二郭は畑になっており少し改変されていますが、やはり堀が立派です。三郭には民家が建ち並んでいますが、土塁が残っています。この他にも、あちこちに土塁や堀が残存しています。
【歴史】
建長年間(1249-56)、佐竹氏5代義重の子・義直が築城し、額田姓を名乗った。額田氏9代義亮の時、山入一揆に参加し、応永30年(1423)佐竹義憲の攻撃で落城し、額田氏は滅亡した。この合戦での功により小野崎通重が額田城主となったが、通重に子がなく同族の水戸城主江戸通房の次男通栄を養子とした。その後、小野崎額田氏が続くが、天正19年(1591)小田原の役後、佐竹義宣は小野崎額田氏7代・照通を攻め落とした。照通は落城寸前に伊達政宗を頼って陸奥へ落ち延びた。城はその後再興されたが、佐竹氏の出羽秋田への移封後に廃城となった。
参考資料
『図説 茨城の城郭』茨城城郭研究会編
三郭西端の土塁 額田小学校北東の空堀と土塁 阿弥陀寺脇の空堀と土塁 引接寺脇の土塁と空堀
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