後閑城

北第一・第二堀切

【道案内】
城跡の地図
後閑小学校から北へ約300m。後閑小学校南側を400m程北西に進んで右折します。150m程北上して道なりに右折し、120m程進んだ突き当りを右折、すぐを右折すると「後閑城址公園」となります。公園に駐車場が完備されています。

【感想・メモ】
城址公園として整備されているため、とても見やすいです。丁度桜が綺麗で、各曲輪に櫓や東屋が置かれて眺めも良いです。車で上まで行けてラクラクなのも素晴らしい。ただ、二の丸北の大堀切など通路になっていてイマイチ面白味に欠ける部分も。北第一堀切と北第二堀切・北第三堀切と堀切が連続で3条見られるのが圧巻です。
【歴史】
嘉吉年間(1441)、依田忠政が築城した。弘治2年(1556)、依田氏の後、北条政時を滅ぼした新田景純の子・伊勢守信純が後閑を所領した。永禄3年(1560)上杉謙信が関東に進出した際、高田氏・安中氏らも従ったが、新田信純と小幡信実は従わずに武田信玄に走った。信玄は信純に名門上条家を継がせ、箕輪城落城後の永禄10年、信純の本領丹生を小幡信実に与えたため、信純を後閑城に入れた。天正5年(1578)2月、信純の長子・信重が総社に分家して石倉城を守り下野守と称した。天正6年、信純が死去すると、次子重政が後閑、三子信久が上条家を継いだ。武田勝頼滅亡後は、下野守信重は厩橋の北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は小田原に属し、信久も後閑氏と称したため、以後、両後閑と呼ばれた。天正12年、高広が小田原北条氏に降り大胡に移った際、北条氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。天正18年、両後閑は小田原に籠城したが、総社の後閑又右衛門は福田氏と共に松井田の大道寺政繁の指揮下となり、北条氏没落と共に後閑城も廃城となった。(『日本城郭体系4』参照)
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別名
所在地 安中市中後閑字谷津
遺構等 曲輪、土塁、空堀、竪堀、掘切、説明板
現状 後閑城址公園
築城年 嘉吉年間(1441-44)
築城者 依田忠政
歴代城主 依田、新田、後閑
形式 山城(比75m)
訪城日 2008/3/29
ごかんじょう