湯浅城 |
JR「湯浅駅」から北東へ約1.5km。国道42号「湯浅」信号を東へ入り、700m程進んで小川を渡り突き当たったら右折します。道なりに大きく左カーブをすると左手に「国民宿舎 湯浅城」があります。この右手(南)の小山が城跡です。 |
国民宿舎湯浅城と城址碑 |
別名 | |||
所在地 | 和歌山県湯浅町青木 | ||
遺構等 | 土塁、空堀 | ||
現状 | 山林(国民宿舎湯浅城の南の山) | ||
築城年 | 康治2(1143) | ||
築城者 | 湯浅宗重 | ||
歴代城主 | 湯浅 | ||
形式 | 丘城(比78m) | ||
訪城日 | 2005/3/19 | 感想 | ○ |
国民宿舎の前に城址碑があり、天守4Fには資料館があり無料では入れます。5Fは望楼で城跡を見下ろせます。本当の湯浅城は、登り口が山の南側のみかん畑の所から登山道があり、少し上ると祠が祀ってありました。そこが三の丸の南にある曲輪で、そこから北へ行くと三の丸ですが、その一段低い東側はスゴイ竹薮で進軍を途中断念。井戸もあるようだけど見つけられず、そのまま三の丸の北側にある二の丸、そして二の丸の西にある本丸へ。どこも草と木々ばかりで写真だとただの山の中って感じですが、肉眼でははっきりと土塁や空堀、本丸も中間に段差があり南北に分かれているのが分かります。 |
三の丸の南曲輪 |
ゆあさじょう |
登り口 |
康治2年(1143)、湯浅宗重がそれまで本城としていた広保山城から青木山に築城した湯浅城を本城として移った。湯浅氏は、南北朝時代、楠木氏や畠山氏と共に南朝方であった。康暦元年(1379)、北朝方の山名義理が和泉国土丸城を撃破した勢いで紀伊国に侵入し、湯浅城も攻められ落城した。その後、楠木氏の残党が後村上天皇の孫・義有王を奉じ湯浅城に入城した。文安4年(1447)、紀伊守護畠山氏は湯浅城を3度攻め落城させた。 |