【感想・メモ】 |
最初は高積神社から東へと高積山方面へ登ります。12分程車道を歩いたのですが、急勾配でかなりきついです。そこから階段で、8分程登ると分岐(右上写真)となり、左が高積山、右が城ヶ峯方面となります。ここから進路は南となり、3分程で展望の良い場所となり、更に南南西へと進むと5分程で城域に入ります。城は北と南に分かれ、北が主郭で全体を土塁が取り囲み、北〜北西に畝状竪堀があり、その少し東斜面に石垣があります。主郭の一段高い所は櫓台のようですが酷い藪で、一段下北側に井戸があります。そこから南郭は離れており、間にうっすらと堀があります。南郭は北側に土塁がありました。 |
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【歴史】 |
鎌倉幕府滅亡後、紀伊国では北朝側から派遣された守護、守護代の統治に対し、南朝方の武家が抵抗して紛争が絶えなかった。建武年間(1334-38)、北朝方より畠山国清が守護として入ったが、延文5年(正平15、1360)に南朝方の四条中納言隆俊が塩屋伊勢守と共に最初ヶ峰に布陣した。これに対し北朝方は畠山義深を大将として和佐山に城を築いた。両者は睨み合いを続け、四条方の塩屋伊勢守が龍門山に布陣し、龍門山合戦が勃発した。隆俊は伊勢守と共に敗走するも各地で争いが続いた。 |
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【参考資料】 |
『和歌山県中世城館跡詳細分布調査報告書』 和歌山県教育委員会発行 |
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