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別名 |
藤白城 |
所在地 |
和歌山県海南市大野中 |
遺構等 |
曲輪、土塁、堀切、竪堀、石列、土橋、碑、説明板 |
現状 |
山林 |
築城年 |
永和4年(1378) |
築城者 |
山名義理 |
歴代城主 |
山名義理、大内義弘、畠山氏 |
形式 |
山城(比380m(林道終点から比60m)、標450m) |
登城時間 |
林道終点から東の郭まで8分 |
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本城(東の城) |
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阪和道「海南東インター」南方から国道370号で900m程東進して右手へと県道18号に入ります。1.2km程東進した「重根地区」で右折、更に県道18号を南下し、約2.5km先で右手に願成寺を過ぎ、更に鋭角に右カーブ、鋭角に左カーブと2km程進んで右折します(案内有)。ここから林道を2.5km程進み、更に未舗装林道を1km程進むと終点で登城口です(表示有)。終点に駐車できます。 |
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東の城西方の堀切 |
西の城の堀切 |
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【感想・メモ】 |
登り始めて2〜3分で鉄塔を過ぎ、更に2〜3分で堀切に出ます。この北側が本城で城址碑や説明板があり、更に北側に2つ段郭があります。ここから西へ進むと土塁や堀切が見られますが結構藪です。南側斜面には畝状竪堀もあり、この辺りが一番面白いです。更に西へ進むと自然地形といった感じですが、土橋や堀切の先のピークが西の城です。ここから北へ下りると鉄塔がありますが、その手前に堀切があります。東西が約500mととても長い城なのですが、途中はダラダラした自然地形といった感じで、西の城は本当に一つの城だったのか?と思えてきちゃいました。 |
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【歴史】 |
永和4年(1378)、山名義理は紀伊国守護に任じられ、紀北地方が北朝の下に統一されると、守護所を紀伊府中から大野へ移した。当時、大野は熊野街道と高野街道の分岐点に当たり、日方浦にも近く海上交通もある交通の要衝だった。山名氏は守護所の守りの拠点としてかつての南朝方の砦を整備した。これが大野城で、本城(東の城)から西の城まで約500mの尾根に転々と郭を配置した。明徳2年(元中8、1391)、将軍足利義満が勢力を増した山名氏を抑えようとしたため、山名氏一族は幕府に反旗を翻した(明徳の乱)。義満の命を受けた大内義弘は軍勢を引きつれ和泉国に入った。その頃、紀北一帯は大内義弘の配下にあったため、山名氏は伊勢へ落ち延びた。大野城には大内義弘が紀伊守護職として入り、守護代として陶氏を城に送った。しかし、間もなく大内氏は応永の乱にて失脚し、代わってこの乱に功のあった畠山基国が守護職として入り、南北朝争乱の終焉と同時に守護職争いも落ち着いた。その後、基国は本城を有田の広城へ移したため大野城は次男の畠山満則に守らせた。 |
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【参考資料】 |
『和歌山県中世城館跡詳細分布調査報告書』 和歌山県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |
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