岩倉城
別名
所在地 和歌山県橋本市隅田町垂井
遺構等 曲輪、土塁、横堀、碑
現状 山林
築城年 鎌倉時代
築城者 隅田氏
歴代城主 隅田氏
形式 丘城(比45m、標170m)
訪城日 2012/1 感想
隅田党の本城である。隅田荘は紀ノ川によって南北に分断されていたが、この荘を中心に活躍していたのが隅田党である。天永2年(1111)初代隅田党が隅田荘の公文職につき、鎌倉時代には地頭職となった。以後、室町時代に畠山氏に属するまで紀北の有力な武士団だった。元徳3年(元弘元年(1331))、隅田党の将・治郎通治は六波羅の大将として出陣し、六波羅が足利尊氏に滅ぼされると今度は後醍醐天皇について南朝を支持した。その後、大内、畠山氏にも属したが、隅田の南荘は高野山領、北荘は畠山氏の支配領となり、高野山と畠山氏の睨み合いが続いた。天正元年(1573)、畠山昭高死後は信長に仕えて高野山攻めに参加し、後に秀吉にも仕えたといわれる。岩倉城は永正18年(1521)高野山衆徒と隅田一族が争っていた記録があることからそれ以前には築城されていたと思われ、隅田蔵人能房、隅田肥前守能継が居城したといわれる。

参考資料
『和歌山県中世城館跡詳細分布調査報告書』 和歌山県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行
【歴史】
お城は単郭で東端に城址碑があり、周囲に空堀が巡っています。
【感想・メモ】

【道案内】
城跡の地図

いわくらじょう
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JR和歌山線「隅田駅」から北西へ約1.5km。隅田駅西北西約600mの国道24号「垂井」信号を北へと県道104号に入り、600m程北上して橋本道路をくぐり、更に300m程北上した左手の小山(東に突き出した尾根上)が城跡です。

東側の横堀