城跡の地図
室町時代中期、波多野清秀が石見国(島根県)から上京して、室町幕府の管領・細川勝元に仕え、応仁の乱に際して各地で軍功を挙げ、細川政元の時に多紀郡を与えられた。清秀の子元清(稙通)は永正年間(1504-21)八上奥谷にこの奥谷城を構え、続いて浅路山(高城山)に八上城を築いたと考えられる。以後、八上城を本城とした波多野氏は元秀・秀忠・晴道・秀治と続き、奥谷城は根城的な役割を担った。天文18年(1549)頃、波多野氏と三好長慶との争乱で、長慶に敗れた細川晴元は将軍を擁して一時この奥谷城に難を逃れたことから、三好氏の大軍が天文19年から数回に亘り執拗に八上城を攻撃した。永禄12年(1569)波多野晴道はこの城で死去した。

参考資料
『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』兵庫県教育委員会発行
現地説明板
奥谷城
別名 蕪丸城
所在地 兵庫県篠山市殿町
遺構等 曲輪、堀切、竪堀、説明板
現状 山林
築城年 永正年間(1504-21)
築城者 波多野元清(稙通)
歴代城主 波多野氏
形式 山城(比50m、標280m)
登城口から主郭まで約7分
訪城日 2011/5 感想
説明板の左手から急斜面を登ると腰郭があり、その上が主郭です。主郭の東に竪堀が2本、また二郭との付け根付近の東西にもハッキリした竪堀がありました。郭は2つで、北端には尾根を断ち切る大堀切もあります。また、山麓の西〜南〜東に濠があったようですが、道路が濠跡なのでしょうか?八上城を訪れた際、この城にも寄ってみると良いでしょう。
【感想・メモ】

北端の堀切
【道案内】

【歴史】
おおたにじょう
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八上城がある高城山から南西尾根先端に突き出た小山が城跡です。国道372号と県道77号が交差する「八上下」信号から100m程国道で東進して右折します。奥谷川沿いに1km程南下して左の川を渡り、すぐを右折して更に川沿いに300m程南下した左手の山が城跡で、登城口に説明板があります。登城口付近の余白に駐車しました。