城跡の地図
交野代官所
別名 北田家住宅
所在地 交野市私部1丁目25
遺構等 母屋、長屋門、倉、石塁
現状 宅地
築城年 寛文元(1661)
築城者 畠山修理太夫
歴代城主 畠山
形式 陣屋
訪城日 2007/2/8
【道案内】


【感想・メモ】
かたのだいかんしょ
【歴史】
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京阪交野線「交野市駅」から東へ約600m。交野市駅から500m程東進して右手に「交野市役所」を過ぎ、更に150m程東進した2本目の路地を右折します。(ここから道がかなり狭いので車で入り込まない方が良いです)50m程南下すると右手に立派な長屋門が見えます。ここが代官所跡です。周辺は道が狭く、代官所跡に駐車場がないので、車で訪れる際は気をつけてください。
代官所跡は北田家住宅として重要文化財になっています。外から見ることができる長屋門は天保14年(1843)に建てられ、長さ55.9mもあります。これは民家では日本一の長さだそうで、写真に収まりません。3〜7月、9〜11月の第3火曜日、10:00〜15:00に公開されるそうです。いきなり目に飛び込んできた長屋門に驚いて屋敷の周りを一周しましたが、蔵が少し見られた程度で、中の建物は何も見られず残念でした。現在も末裔の方が住まわれています。
寛文元年(1661)から約200年間、畠山の子孫で旗本の畠山修理太夫が代官職を務めた屋敷跡。北田氏は以後世襲で代官職を務め、10代好剛まで続き、元治元年(1864)同村の原田伝兵衛に職を譲った。北田氏は、南北朝時代に南朝方だった武将・北畠顕家の末孫と伝えられ、 南朝没落後、足利将軍家にはばかって姓を「北畠」の白を除いて「北田」と改めたといわれる。顕家から9代目の好忠の時、私部城主安見氏の重臣となったが、元亀元年(1570)織田信長による本願寺攻めに安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢に攻められ落城した。その約20年後、嫡子・好孝が私部に戻り、現在の地に居住し、農業を始めたといわれる。