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別名 |
春日城 |
所在地 |
奈良県山添村春日 |
遺構等 |
曲輪、堀切、石垣 |
現状 |
山林 |
築城年 |
天文年間(1532-55) |
築城者 |
奥田三河守忠高 |
歴代城主 |
奥田 |
形式 |
山城(比80m) |
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東郭の石垣 |
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阪国道「山添インター」から県道80号を500m程東進し、左手に山添村役場を過ぎてすぐを右折し、国道25号に入ります。150m程南下して左折すると、左手に山添村スポーツ運動場の駐車場が、右手に山辺高校山添分校があります。この学校の南〜東にかけてが城跡です。 |
【感想・メモ】 |
学校の東方に登城口があり、5分も登れば西郭群の西の郭の堀切に出ます。西郭群は郭が東西に2つあり、この西側の郭の主郭は藪で周囲に帯郭が、北側に腰郭があり、東側に堀切が2本あります。東側の郭は少し離れてあり、こちらは単郭ですが西側の主郭の5倍ほどの広さがあり、西と東に堀切があります。この西郭群から東へ進むと東郭群となります。東郭群は主郭を中心に各尾根に段郭があり、主郭周囲には石が見られ、特に北側下には立派な石垣があります。このまま東へ下山し、道へ出たら左手へ、春日神社が右手にある道に出たら左手へ進むと、高校と駐車場の前の道に戻れます。 |
【歴史】 |
天文年間(1532-55)、奥田三河守忠高が築城したと伝えられる。奥田氏は足利氏斯波の一族で、尾張国奥田城を拠点とし、奥田氏を称した。忠高は松永弾正久秀に仕え、久秀没後は織田信長、豊臣秀吉に属していたが、この地に戻って居住していた。その後、徳川家康が天下を手中にすると、召しだされて本領(大和国山辺郡のうち、春日・大西・上津・下津・中峰山・広代・中之庄・吉田の八村)と紀伊国名草郡の一部のあわせて2811石を領した。これは忠高の孫・半兵衛忠一が関ヶ原で戦功を挙げたため、忠高に本領を安堵されたとの説がある。以後、奥田氏は旗本としてこの地を領し、城の北西下の大西に陣屋を構えた。(『日本城郭大系10』参照) |
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登城口 |
西郭の堀切 |
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