御土居は9ヵ所史跡指定されています。いずれも駐車場はありません。 |
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【感想・メモ】 |
右図Aの土居はかなりな高さに圧倒され、土居上に碑があります。西側の道路は堀跡の雰囲気です。そこから北へ進み「しょうざん」の裏手を歩くと、右手(東)にずっと高い土居が続くのを見られます。山かと錯覚する位で、秀吉の強大な権力を感じると同時に、たった5ヶ月で築いたことに、備中松山城の水攻めなんて容易いことだったのか?とも思えてきます。「しょうざん」の1本東側の通り沿いに右図@があり、フェンスで近づけませんが、説明板と碑があります。そこから東へ進み「招善寺」の北に右図Hがあり、立派な土居に驚嘆します。ここもフェンスで近づけませんが、説明板と碑があります。桁違いな規模の土居を見て歩くと大満足します。 |
【歴史】 |
天正19年(1591)、豊臣秀吉が都城荒廃後の京都の整理に乗り出し、洛中・洛外を分けるため、また外敵の来襲に備える防塁と鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、わずか5ヶ月で築いた土塁と10ヵ所の門がある。台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、延長22.5kmに及んだ。しかし、江戸時代に入ると堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用となり、近代には開発によって次々と壊され、部分的に残存するのみとなった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |