千本北大路交差点から250m程東進すると「船岡山」バス停がありますが、この付近から南へ入った「船岡山公園」が城跡です。 |
船岡山城 |
別名 | |||
所在地 | 京都府京都市北区紫野北舟岡町 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、空堀 | ||
現状 | 船岡山公園 | ||
築城年 | 応仁元(1467) | ||
築城者 | 山名持豊 | ||
歴代城主 | 山名、細川 | ||
形式 | 山城 | ||
訪城日 | 2007/3/31 | 感想 | ○ |
ふなおかやまじょう |
5分も登れば山頂に着きます。船岡山の西側からは大文字山が見えます。山頂には三角点の説明板がありました。城跡の主要部は建勲神社の敷地になっており中に入れません。でも、柵越しに神社の北側には堀切が、南側には土塁や空堀が見えます。神社より南にもしっかりした横堀があります。建勲神社は、戦国の世を統一して太平をもたらしたと言うことで信長を祀っています。 |
船岡山は京都に都が定められる際、北の基点となり、この山の真南が大極殿・朱雀大路となった。これは、船岡山が玄武の小山とされたためだった。応仁の大乱(1467-1477)の際、西軍の山名宗全方の本拠として城郭が築かれた。以後、船岡山周辺一帯は西陣と呼ばれている。応仁2年(1468)細川勢が総攻撃を加え、守将山名教之の家臣小鴨安芸守は討死にし、落城した。永正8年(1511)細川澄元はこの城を修築し、足利義稙派に備えた最終的防禦陣地とした。同年8月、丹波の内藤貞正、周防の大内義興らの大軍が丹波から攻め入り、澄元は大敗した。その後、戦国の世を統一した織田信長が本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町天皇の勅許を得て、主君信長公の魂をこの船岡山に祀ろうとした。 |