感状山城

搦手門

鎌倉時代、瓜生左衛門尉が築城したといわれるが、南北朝時代初めに赤松円心の三男・則祐が築城したともいわれる。建武3年(1336)、足利尊氏が京で南朝方に敗れ、九州へ落ち延びた時、北朝方だった赤松円心は尊氏を助け、赤松氏の本城・白旗城を築いて播磨の守りを固めた。その時、則祐は感状山城を築いて立て篭った。新田義貞は5万の兵を率いて播磨に入り、感状山城へ三千余騎で攻めたが、撃退された。その後、則祐は白旗城に入った。新田軍は白旗城を攻めたが落とせなかった。やがて尊氏が反撃し、則祐は先陣を切って京へ攻め上り、足利氏は天下統一を成した。この功績に則祐は尊氏から「感状」を貰った事から、この城は「感状山城」と呼ばれるようになった。
【歴史】
【感想・メモ】

大手門

大手門上の井戸

城跡まで550mです。途中で道が大手門と物見岩へ分かれますが、物見岩へ進みました。登り始めて20分程で物見岩に到着。その北には倉庫跡や三曲輪群、出曲輪があり、更に奥へ進んで井戸を見ました。井戸の上は二曲輪群の西下にある腰曲輪群ですが、適当に切り上げて三曲輪群へ戻り、ここから一・二曲輪群の案内がある方へ登ります。この先、石垣が素晴らしく、特に南曲輪群〜南二曲輪が見応えあります。南二曲輪には礎石もあり、その北に北二曲輪、一曲輪と続き、これらの西側には腰曲輪があり、ここでも石垣が見られます。曲輪は整備され、眺望も良く、とても気持ち良いです。帰りは三曲輪から大手門へ下りて井戸や石段を堪能し、そのまま下山しました。
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縄張図(現地で貰ったパンフより)

100

50

県道5号と県道44号が交差する「真広」信号を県道44号で北上し「羅漢の里」案内に従います。城と羅漢の里は登山口は同じで、途中から羅漢の里は左手へ、城は右手へ分かれます。登城口に駐車場が完備され、羅漢の里に1軒あるお店で縄張図付きパンフが無料で貰えます。

倉庫跡

南曲輪群の石垣


登城口の地図
【道案内】
城跡の地図

三曲輪から北東奥の井戸

一曲輪

別名 瓜生城、下原山城
所在地 兵庫県相生市矢野町森感状山
遺構等 曲輪、石垣、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 鎌倉時代
築城者 瓜生左衛門尉
歴代城主 瓜生、赤松
形式 山城山城(比200m)、標240m
登城口から物見岩まで約20分
訪城日 2010/11 感想
かんじょうさんじょう