武田信義館 |
別名 | |||
所在地 | 山梨県韮崎市神山町武田 | ||
遺構等 | 碑、説明板 | ||
現状 | 神山町武田 | ||
築城年 | 12世紀初頭 | ||
築城者 | 武田信義 | ||
歴代城主 | 武田 | ||
形式 | 館 | ||
訪城日 | 2009/3 | 感想 | − |
たけだのぶよしやかた |
韮崎西中学校の北側道路を中学校から200m程西進した1本目の路地を右折し、200m程北上した最初の路地を左折します。200m程西進した2本目の路地を右折すると、右手の畑の奥に小区画があります。ここが武田信義館跡です。 |
通り沿いに看板が出ているので分かりました。館の説明板だけでなく、神山町付近の名所旧跡分布図があります。願成寺に信義の墓もあります。 |
新羅三郎義光の曾孫・源信義がここに居館を構えて武田太郎と称した。これが武田氏の祖である。治承4年(1180)、以仁王の令旨を奉じて平家打倒のため挙兵し、武功を立てて駿河守護に任じられた。ところが、勢力を増大した甲斐武田氏に危機感を覚えた源頼朝に疎んじられ、信義は一線を退き、文治2年(1186)失意のうちに59歳で世を去った。信義の館跡は約250m四方の規模だった。(現地説明板参照) |