吉窪城 |
主郭
二郭石垣
登城道は整備され、階段を上がると主郭で神社が鎮座しています。主郭の東南には抜け穴があり、この南側の土塁が守りを固めています。この主郭の南に二郭・三郭が東西に並んでいます。二郭が東側で、あちこちに石積みがあります。三郭は西側に堀があります。この二郭・三郭の南となる四郭にも石積みが見られます。また、主郭の東や西にも横堀が、更に北側には竪堀があります。郭を堀ではなく、土塁のみで区画していて、ちょっと変わっているというのと、遺構はあるのですが、全体的に郭がダラダラしていて、私にはお城として理解するには難しかったです。 |
別名 | 小田切城、吉窪山城 | ||
所在地 | 長野県長野市塩生甲 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、横堀、石積み、説明板 | ||
現状 | 山林、神社 | ||
築城年 | |||
築城者 | 小田切氏 | ||
歴代城主 | 小田切氏 | ||
形式 | 山城(比40m)、標高619.2m | ||
訪城日 | 2009/10 | 感想 | ○ |
よしくぼじょう |
小田切ダムの北方600m。犀川を北へと国道19号「両郡橋」で渡ってすぐを左折します。200m程西進した左手に小田切発電所がある付近で右折し、九十九折れの道を上がっていきます。集落に入って道が突き当たったら右折し(西明寺は左)、ここから道がかなり狭いですが300m程進むと、2号古墳が左手に見えます。この少し手前右手が登城口で表示板があります。登城口付近に何とか駐車しました。 |
主郭南の土塁
小田切氏の始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となって小市に移住し、小市今里等に居館を構え、背面にこの吉窪城を築いた。戦国時代、城主小田切駿河守幸長は、始め村上義清に属し、更に村上氏と共に上杉方に加わった。弘治3年(1557)葛山城を守った頃は春日、朝日、長嶺、久保寺、平林、布施、横山等組下七騎衆を率いた武将だったが、武田方の火災攻めに遭い越後軍の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死した。武田方の治世になってからは幸長の一子民部少輔は一時武田方から400貫の知行を受けたこともあったが、衰微し流転を重ね、末裔は高井郡に移ったと伝えられる。(現地説明板参照) |