松岡城
平安時代、前九年の役(1056-62)で敗れた陸奥の安倍貞任の次男仙千代が市田郷牛牧村に逃れ、郷民に推され地頭となり松岡姓を称し、松岡古城に館を構えた。南北朝期に入り新たにこの地に城を構え、以後松岡氏の本拠とし、信濃国守護小笠原氏に従った。天文23年(1554)伊那に侵攻した武田信玄の軍門に降り、自領の安堵を図った。天正10年(1582)織田信長の伊那侵入の際、城主頼貞は信長に帰順し本領を安堵されるも、本能寺の変で信長は急死。徳川家康と豊臣秀吉のどちらに就くか去就を決めかねていた時の城主松岡貞利は徳川家康に誓詞を入れ服従を約すも、松本の小笠原貞慶が徳川方の保科氏を高遠に攻めた際、貞利は小笠原氏に味方して高遠の攻撃に加担した。それを家臣に密告され、天正16年、松岡貞利は改易を命ぜられ、所領を没収され、約500年続いた松岡氏の支配は終わりを遂げた。

参考資料
『図解 山城探訪』宮坂武男著
現地パンフレット
【歴史】
松源寺の手前に五の堀があり、その北西には丸馬出があったようです。お寺から南東へ進むと四の堀、三の堀、二の堀と巨大な堀が続くのに驚かされます。主郭手前の一の堀は浅くなっているものの、土橋が明瞭で、虎口には石積みも見られます。主郭はかなり広く、南東端に城址碑があり、この付近からの眺望がとても良いです。この主郭下の山の中腹にも遺構が良く残り、堀切や虎口、竪土塁、横堀などが見られます。各所に図面付きの説明板もあってありがたいです。パンフレットを見ながら、一通り散策すると良いでしょう。

山麓虎口

【感想・メモ】

二の堀


【道案内】
城跡の地図
JR飯田線「下市田駅」から西へ約1.1km。南信州フルーツラインで南大島川を北東へ渡り(飯田市から高森町へ入る)、800m程進んで右折します。300m程南東へ進むと松源寺があり、このお寺手前から南東の段丘下にかけてが城跡で、お寺の前に駐車場があり、パンフレットが置いてあります。

一の堀

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別名
所在地 長野県高森町下市田
遺構等 曲輪、土塁、横堀、竪堀、堀切、石積み、碑、説明板
現状 公園、山林
築城年 南北朝期
築城者 松岡氏
歴代城主 松岡氏
形式 崖端城
訪城日 2011/7 感想
まつおかじょう