松山城 |
別名 | |
所在地 | 加賀市松山町 |
遺構等 | 曲輪、土塁、空堀 |
現状 | 山林 |
築城年 | 戦国時代 |
築城者 | 徳山五兵衛(則秀) |
歴代城主 | 徳山 |
形式 | 山城(比40m) |
訪城日 | 2006/3/26 |
まつやまじょう |
国道8号「松山」信号を南へと県道39号に入り、400m程南下して左折します(旧県道39号)。左手に「菅原神社」を過ぎてから1本目の路地を右折し、50m程南下した1本目の路地を左折します。この道を直進すると集落から外れ、右手に池を過ぎて山の中へ入っていきます。山への入口に「松山焼窯跡」の案内があり、山の中はロープがずっとあって道が整備されています。途中「松山古墳群」の案内も過ぎて少し下ると空堀で、その奥が主郭となります。車は「菅原神社」に7台分程駐車スペースがあるのでそこに停め、後は道が狭いので歩いた方がいいでしょう。ちなみに、菅原神社を左手に過ぎて右折してから2本目の路地に「松山城跡」の案内があり、ここを左折してあとは直進すると墓地を過ぎて山へ入る道がありますが、こちらは道が途中で荒れているためこちらから行く場合は気をつけてください(ただしこちらの方が近い)。墓地に1〜2台分の駐車スペースがありました。 |
主郭北側は倒木が結構あって見難いですが、北〜東にかけて空堀があり、東側は一番見応えがあります。ただ、あちこち草木が多くて写真ではイマイチ分かりにくいです。主郭東側の松山古墳群の案内があった付近は副郭と思われます。 |
戦国時代、徳山五兵衛(則秀)が築城したと言われる。則秀は、佐久間盛政の家臣で、天正4年(1576)織田信長の命で盛政が一向一揆攻略のため加賀に入った際、則秀も従った。その後、則秀は松任城に入り、盛政が柴田勝家と共に豊臣秀吉と戦った賎ヶ岳合戦の際も盛政に従い秀吉と戦ったが、敗れた後、秀吉に降った。天正8年、一揆方の坪坂新五郎、徳田小次郎らがこの城に拠ったため、柴田勝政勢に攻撃され殲滅されたといわれる。慶長5年(1600)慶長の役の際、前田利長が大聖寺へ向かう途中、この城に本陣を置いたと伝えられる。 |