松前城 |
別名 | 福山城、福山館 |
所在地 | 松前町松城 |
遺構等 | 復興天守、曲輪、土塁、堀、石垣、本丸表御殿玄関、本丸御門、碑、説明板 |
現状 | 松前公園 |
築城年 | 安政元(1854) |
築城者 | 松前伊豆守崇広 |
歴代城主 | 松前 |
形式 | 平城 |
訪城日 | 2008/7 |
松前公園東側は搦手門等が復元整備され、内濠越しに見る復興天守がいい感じです。復興天守の左に本丸御門、その左手に本丸御殿玄関も見られます。公園の南側には馬出枡形跡や第一、第二砲台跡もあり、北側は外堀跡の表示を見て歩くと城域の雰囲気が分かります。その北西にある松前藩松前墓所へも立ち寄ると良いと思いますが、更に北西にある松前藩屋敷はテーマパークで、本当の屋敷跡があるかと期待して行ったのでがっかりでした。 |
鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終わり頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの乱(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家二世)以後代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。天正17年(1589)五世慶広の時、大館の居館焼失を機に慶長5年(1600)福山に築城を着手し、慶長11年福山城(松前城)が完成した。慶広は松前氏と改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ、松前藩が成立した。嘉永3年(1850)17世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、幕府の命により城は取り壊され、高崎藩の市川一学の設計により全面的に改築し、安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成した。約7万6千平方メートルを有する城郭であった。特に城内に砲台を備え、天守には火器戦争に頑丈な意匠構造とし、従来の日本式に西洋式が加味された城で、その背景には、ロシアの南下など外国船の二本侵略を防ぐ目的があり、松前城は北辺警備の重大な役割を果たしていた。(現地説明板参照) |
第一、第二砲台跡
まつまえじょう |
松前町役場の西方にある松前公園が城跡で、公園の南側や東側に無料駐車場が完備されています。 |
本丸御殿玄関
本丸御門と復興天守