大桑城
登り出した矢先、いきなり左手に大きな空堀があります。ここは登山道はしっかりしているものの、急坂&道のりが長くかなりしんどいです。登山道入口から番所跡まで35分かかりました。番所跡からすぐに竪堀が両側に見られます。更にここから5分ほど登ると「馬ならし場跡」の案内板に出ます。馬ならし場は細長く、その先に立派な掘切があります。この堀を注意深く見ると石が積まれているのが分かり、その先は段郭になっています。馬ならし場入口まで戻り少し行くと、食い違いになった堀切があり、これはかなり立派です。土橋もカッコよく、側面に石垣があるようなのですが、雪で滑り落ちそうなので確認は諦めました。そこから右手が曲輪の上を通る道、左が曲輪の西側を通りながら西側に細長くのびた郭を見られる道と二方向に分かれています。この2つの道が合流してすぐ右手に「霧井戸入口」の案内があります。急斜面なため所々にロープが張ってあり下りて見に行ったら、思った以上に下り、遠かったです。井戸は周囲が石で組まれ水は澄んでいて、今でも使えそうです。この付近もあちこちに石積みが見られました。先程の霧井戸入口の案内板から主郭下の碑や祠がある所までは7〜8分でした。右手にはミニチュア天守があり、そこからの眺めは最高です。苦労して来た甲斐があった〜と思いながら目の前の主郭へ〜。主郭は細長く幅が全然ないので、居住空間などは全く違う場所にあったようです。ここから北の曲輪へと下りると、これまた細長いのですが、ここからの眺めも素晴らしいです。ミニチュアの方が岐阜市方面を見られ、こちらの主郭北の曲輪からは美濃市方面が見られます。これだけ登った割には、大した遺構が見られなかったなぁと思うも、何となく満足感でいっぱいになりました。
【感想・メモ】
土橋

明応年間(1492-1501)、土岐成頼の子・定頼が城を改修して住んだ。土岐氏最後の美濃守護・頼芸は斉藤道三の勧めと力により、天文3年(1534)大桑城へ移った。天文11年、道三が突然大桑城を攻めたが、越前朝倉、尾張織田の介入で和議が成立するも、天文16年、再度道三が攻め、頼芸は国外へ逃げ、大桑城は廃城となった。
【歴史】
登城口の地図
城跡の地図
【道案内】
井戸
国道256号「伊佐美」信号を西へと県道174号に入り、300m程進むと道が右に曲がるのでキープし、更に1.2km程進んで右折します。そのまま1.5km程道なりに進み、(途中、右手に「四国堀」の説明板や碑がある立派な空堀あり)「椿野苑」の案内がある方へと右折すると、突き当たりに「古城山」の案内があります(古城山入口のすぐ手前に椿野苑(老人ホーム)があるため、椿野苑の案内を目印に行くと良い)。そこを左折し少し行くと、登山者用の駐車場があります。そこからは古城山登山道の案内がずっとあるので、歩いて登ります。
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登り始めの空堀
ミニチュア天守
別名 古城山
所在地 山県市(高富町)大桑
遺構等 曲輪、石垣、堀切、竪堀、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 15世紀
築城者 土岐氏
歴代城主 土岐
形式 山城(比367m)
登城口から主郭まで約50分
訪城日 2005/3/26
おおがじょう