長瀬城 |
別名 | |
所在地 | 揖斐川町谷汲上長瀬 |
遺構等 | 碑 |
現状 | 田、山林 |
築城年 | 応永初年(1390年代) |
築城者 | 鷹司冬基 |
歴代城主 | 鷹司 |
形式 | 山城 |
訪城日 | 2004/8/7 |
ながせじょう |
三の丸 |
谷汲山華厳寺の門がある前の通り・県道40号を東進し、谷汲山大橋の手前を左折して県道255号に入ります。1.2km程行くと長瀬小学校がありますが、この学校の北〜東側一帯が城跡です。 |
そのまま北へ真っ直ぐ行くと切通しとなり、その左手には西出丸が、右手には丸山砦があります。また、小学校の東側を流れる府内川の東側道路を走っていると、その東側は土塁跡が、また樽見鉄道の線路上には本丸があったようです。その東側には二の丸が、二の丸の南側には三の丸があったようですが、現在は一面の田んぼ(休耕田?)で何にも分かりませんでした。また、丸山砦の東側、鉄道の北側には長山砦、上屋敷、大山砦、尾崎砦があったので、それを確認しようとしたらこの付近の山の麓はキャンプ場と温泉施設になっていて、立派な駐車場がありました。そこから山の方へ行こうとしたら、砦跡の標柱がありました。少し東へ歩いてみたら、今度は墓標がたくさんあり、そこに長瀬城址の標柱もありました。この近辺で、2〜3ヵ所から山の中へ入ってみたものの、すごいブッシュでそれ以上進めず、何も確認できずじまい。上屋敷には稚児池があったようですが、大きな穴がポッカリ空いていたのがその池の跡だったのかも? |
応永初年(1390年代)、鷹司冬基が築城した。冬基は関白鷹司兼平の子・弾正忠家平の末裔である。長瀬城主は代々、冬基の子孫が継ぎ、地方の豪族として勢力を誇った。しかし、戦国の世になると、時の長瀬城主・冬明と、弟・政光・光政の間で骨肉の争いが起き、更に斉藤道三や土岐頼芸を味方する織田信秀の軍との戦いが勃発し、どちらも戦死した。その際、長瀬城も灰燼に帰した(天文17年、1548)。 |