加賀野井城 |
別名 | |
所在地 | 羽島市下中町加賀野井857-1 |
遺構等 | 碑、説明板 |
現状 | 田、宅地 |
築城年 | 天正年間(1573-91) |
築城者 | 加賀野井弥八郎秀望 |
歴代城主 | 加賀野井 |
形式 | 平城 |
訪城日 | 2005/7/2 |
かがのいじょう |
木曽川沿いの県道184号で名神高速・東海道新幹線を南へくぐり、くぐってすぐを右折、1本目のすぐを左折し、700m程南下した右手に城址碑(文化財の標柱)があり、この付近一帯が城跡です。 |
一面の田んぼの中の道沿いにポツリと城址碑と説明板があります。説明板の背後には、大きなソテツの木がありました。周辺の道は狭いので気をつけてください。 |
天正年間(1573-91)、加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となった。本能寺の変(天正10年・1582)の2年後、小牧長久手の戦いにて豊臣方が大敗し、翌5月諸戦の雪辱のため一転して秀吉は加賀野井城を攻撃した。城中には信雄の隊兵2千騎も加わり必死に防いだが、豊臣方10万の大軍に抗しきれず、城の明け渡しと助命を条件に講話を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。そのため、夜蔭に乗じ大手門よりうって出て、最後の決戦を試みたが、城兵は討死し、城主秀望は辛くも脱出して関東にのがれ落城した。 |