勝栄寺は正平5年(観応元年・1350)頃に、大内弘世の重臣・陶弘政によって創建され、陶氏の菩提寺でもあった。富田は山陽道や瀬戸内海の主要な港の一つ・富田津に位置する陸海の交通の要所で、戦乱の続く南北朝時代に寺の周囲に土塁と堀を構築して城郭化した。弘治元年(1555)に厳島合戦にて陶晴賢を破った毛利元就は、防長二国の各地で大内氏残党が相次いで蜂起している事態を重視し、弘治3年、長男隆元を伴い富田に進駐し、勝栄寺に本陣を置いて一揆を鎮圧した。その在陣中に、元就が三人の子に宛てた教訓状(三矢の訓)を勝栄寺にて書き残したと伝えられる。また、豊臣秀吉が九州進発の際、当寺に宿営したともいわれる。 |